敦賀 気比神社
2025-07-06


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半年ぶりに、やっと旅に出た。明朝早く秋田行きのフェリーに乗るため、昼に出発して敦賀で一泊する。敦賀ではいつも夜発のフェリー乗り場に直行するため、これまでレンガ倉庫のあたりしか見たことがなかった。今日は時間があるので、気比神社と金ヶ崎城址に寄ることにした。

気比神社は紫式部と直接の関係はないが、父・藤原為時が越前守に任命された長徳2年(996年)ごろ、若き紫式部が越前国へ同行した際に立ち寄った可能性が高い。越前での暮らしは、都育ちの彼女にとって厳しく、『紫式部集』に詠まれた和歌にもその苦悩がにじんでいる。滞在は現在の武生あたりで約1〓2年とされるが、この地での静かな時間が、自然や人間の感情への洞察を深める契機となった。この越前での経験が、後の『源氏物語』における繊細な心理描写や情景表現に生かされたとされる。

境内には夏越の茅の輪が設けられ、参拝者がそれをくぐっていた。夏越の祓の神事で用いられる茅の輪は、半年間の穢れを祓い、残りの半年の無病息災を願うためのものだ。参拝者は左・右・左の順に八の字を描くようにくぐり、身を清める。この風習はスサノオノミコトの伝承に由来し、茅の輪を身に着けていた者が疫病から守られたことにちなむという。

その後、金ヶ崎宮へ向かった。ここは、織田信長が越前の朝倉義景を攻めた際、同盟を結んでいた浅井長政の裏切りにより挟撃の危機に陥り、撤退を余儀なくされた「金ヶ崎の退き口」の舞台である。妹・お市の方が小豆を両端を縛った袋に入れて送り、挟撃の危険を暗示したという逸話が有名だ。信長は即座に撤退を決断し、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿を務めて見事に脱出した。この戦いは、信長の決断力と秀吉の軍才が光る名撤退戦として語り継がれている。

階段をあえぎながら登ると、金ヶ崎城址と、その先にある月見御殿跡にたどり着いた。そこは展望台になっており、敦賀湾を一望できる。かつて戦国武将たちがここで月を眺めたという。戦の地でありながら、月を愛でる教養の高さもうかがえる。

暑い一日だったが、海沿いには風があり、木陰は涼しかった。気比松原の海岸では海水浴客がにぎわっていたが、昔に比べると数はずいぶん減ったように感じる。ドローンを上げて、松原と海岸線を撮影した。途中でホームセンターに立ち寄り、薪を少し買った。広葉樹が4キロで三千円近くもして驚いた。以前の倍近い価格だが、年金は2%弱しか上がっておらず、虚しさが残る。明日は約20時間、フェリーの中で過ごす予定だ。何をして時間を潰そうか、少し悩んでいる。
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