�禺画像]
「AIを不用意に使うな」――中央教育審議会の審議まとめを読んで、また始まったかと思った。新しい技術が現れるたび、日本の教育行政は律儀にブレーキ係を引き受ける。今回も国語の要約や美術の表現への安易な活用を戒め、家庭学習での利用にも注意を促した。心配は分かる。AIに考えることを丸投げすれば、学力だけでなく思考力まで細るかもしれない。だが、その議論には肝心な現実が抜け落ちている。子どもたちはすでにスマホを握り、AIを使っているのである。大人たちが会議室で「気をつけましょう」と確認し合う間にも、技術は教室へ入り込み、放課後にはポケットの中で働き続けている。洪水が迫る中で、「増水注意」の看板だけを増産しているような光景だ。看板は増える。会議も増える。しかし水は止まらない。
規制派が恐れるのは、宿題の丸写しやレポートの自動生成、そして思考力の低下だろう。その懸念自体は理解できる。しかし、「だから使うな」という結論になると話は別である。子どもが使わないことを前提にした教育政策は、子どもがスマホを持っていないことを前提にした校則と同じくらい現実味がない。技術を禁止しても問題は消えない。大人の視界から消えるだけだ。むしろ必要なのは、考えることが得になる仕組みである。学習アプリ『Knock』は答えだけでなくヒントを示し、AIを活用したディベート授業では生徒がAIの判定そのものを吟味する。そこではAIは答えを与える機械ではない。問いを増やす装置である。教師が何度説教するより、一度「面白い」と思わせる方が強い。子どもは説教で動かない。好奇心で動く。
そこで問われるのは利用者のモラルではなく、提供者の設計思想だ。行政が本気で思考力の低下を心配するなら、生徒への注意喚起を増やすより「教育AI開発指針」を整備した方が早い。いきなり正解を出さず、段階的にヒントを示し、結論より先に理由を考えさせる。そうした仕組みを製品側へ組み込むのである。ところが日本の行政は注意喚起が好きだ。交通事故を減らしたい時は心得集を配り、情報漏洩を防ぎたい時はポスターを貼る。精神論は安い。紙一枚で済み、会議を開けば仕事をした気にもなれる。しかしAIは心得集を読んで反省するほど従順ではない。技術の問題には技術で答えるしかないのである。
さらに言えば、日本には別の勝ち筋がある。AI基盤モデルそのものの開発競争で世界の先頭に立つのは容易ではない。投資規模が違うからだ。だが、それは競技種目を勘違いしている。優れた基盤モデルは世界から調達できる。その上に日本の教科書体系や学習指導の知見を重ねればいい。何度質問されても嫌な顔ひとつしない二十四時間家庭教師は、もはや夢物語ではない。半導体は買える。クラウドも借りられる。AIも輸入できる。しかし、子どもを「もう一問やってみよう」という気分にさせる教育体験だけは買えない。日本が勝負すべきなのはAIそのものではない。そのAIにどれだけ教師の知恵を宿せるかである。
審議会が「不用意な利用」を警戒している間にも、子どもたちは今日もAIを使っている。ならば問うべきは、禁止できるかどうかではない。どう使えば考える力を伸ばせるかである。教育現場に必要なのは監視ではなく、好奇心を刺激する仕掛けだろう。技術はもう教室の扉を開けている。それなのに行政だけが「使うな」の張り紙を書き続ける。どうやらAIを使うかどうかを議論しているのは大人だけらしい。子どもたちはとっくに次のページへ進んでいる。教育行政に求められているのはブレーキの点検ではない。ハンドルを握り前に進む方法なのである。